過労死認定、国に決断させる
小池「決断をしていただきたい」
厚生労働大臣「関係省庁と協議した結果、上告しないということにいたします」
小池「今日、お母さんもお見えになっていますが、大変喜んでおられると思います」
2008年11月13日、参院厚生労働委員会。全国の医療労働者、国立病院の労働組合があげて支援し、日本看護協会まで乗り出した闘争、25歳の女性看護師の過労死裁判が勝利を迎えた瞬間でした。
傍聴席で涙をぬぐう母親の村上加代子さん(60)。加代子さんに向かって頭を下げる舛添要一大臣(当時)。小池晃さんも万感がこみ上げてきました。
国立循環器病センター(大阪府吹田市)の脳神経外科病棟に勤務の村上優子さんが倒れたのは01年2月13日。遅出勤務(定時午前11時から午後7時半)を午後9時半ころ終えて帰宅後、頭痛におそわれて救急車で運ばれ、くも膜下出血で3月10日に亡くなりました。
眠すぎる!
最後に残された友だちへのメールは発症当日の2月13日午後9時45分。「とりあえず帰ってきました。眠すぎる!」とありました。
携帯メールには異常な勤務実態が残されていました。日勤(午前8時30分~午後5時)が長引き午後9時半まで勤務、ほとんど眠ることなく深夜勤務(午前0時30分~午前9時)に突入したときには、「もう始まったときからふらふら」と打たれてありました。
間違った働き方を摘発する厚労省のおひざ元で起きた過労死。サービス残業に隠された長時間過密労働、国内有数の高度先端医療職場で重圧を受ける看護労働の質的過重性、深夜変則交代労働の悪影響が問われ、世界にとどろいた日本の「カローシ」の縮図ともいえる事件となりました。
職場にはタイムカードもなく、勤務命令簿にあった表向きの時間外労働をタテに病院側は「優子さんの超過勤務は月16時間から20時間。休日の過ごし方に問題があったのでは」との態度でした。両親の雅行さん(66)と加代子さん=吹田市=は「優子だけの問題じゃない。二度と犠牲者をださない、娘の死を無駄にしないように頑張る」と決意し、たたかいを始めます。
厚生労働省は「公務外」として公務災害としての補償を認めず、人事院も不服申請を棄却。両親のたたかいは08年10月末、大阪高裁が優子さんの死亡は「公務に起因する」と認定するまで、険しい道が続きました。
小池さんは山下芳生参院議員とともに同年11月11日、高裁判決を尊重し上告を断念せよと舛添厚労相に直談判。2日後の厚生労働委員会で厚労省はついに「上告しない」と表明し、遺族の思いが届いたのです。
大阪の「村上優子さんの過労死認定・裁判を支援する会」を拠点にした運動で集めた署名はのべ20万人。遺族の頑張り、全国的運動と一体になって国会などで追及してきたのが小池さんや宮本岳志さん(現衆院議員)です。
節目の追及
勝利への経過をまとめた「支援する会」の冊子には小池さんの国会質問の会議録全文が紹介されています。
一つは02年12月の参院厚生労働委員会。そして上告断念を決断させた08年11月の厚生労働委員会。節目の質問として記録されています。このなかで小池さんは過労死につながる業務の過重性について、労働時間の長さとともに交代勤務、深夜労働、精神的緊張を伴う勤務実態を合わせて判断するよう政府に迫りました。02年の質問は量的過重性とともに看護労働の質的過重性を総合的に判断した高裁判決の先鞭(せんべん)をつけるものでした。
裁判の成果を伝えたいと各地をまわる加代子さん。「私も40年間、看護師。娘は看護師にあこがれ、頑張っていました。いまも看護師不足による過酷な長時間労働、精神的な負担は改善されていません。看護師の労働条件の改善、大幅増員を国会で繰り返し求めてきた共産党に伸びてほしい。小池さんは医療現場をよく知り、気さくで、優しく、気配りのある方。弱者のための政治のために頑張ってもらいたいです」
(2010年05月27日・しんぶん赤旗)