回復の道開いた医師
東京都足立区に住む榊原健太郎さんは、医師時代の小池晃さん(参院議員・東京選挙区候補)の献身に救われました。母親の百合子さん(当時40歳)は「あの時、小池先生が相談にのってくれなかったら」と振り返ります。
長男の健太郎さん(当時16歳)が、オートバイ事故で意識不明の重体となって病院に運び込まれたのは17年前。両親の芳夫さん、百合子さんが大学の付属病院に駆けつけたとき、健太郎さんはろっ骨骨折による右肺の損傷と手足の骨折、頭への衝撃による意識障害で予断を許さない状況でした。
すぐに手術。「死なないでほしい。とにかく命だけは」と百合子さんは待合室で健太郎さんの寝間着を胸に抱きしめていました。手術は成功。しかし意識の戻らない日が続きます。病院で「意識は一生戻らない。老人病院の手配をしてください」と言われました。
瀰慢(びまん)性脳軸索損傷との診断。脳神経の伝達回路が事故の衝撃で損傷を受け、脳からの指示が体内にうまく伝達されないというものでした。「寝たきりの一生を思うと絶望のふちに追いやられた」と百合子さんはいいます。
希望つなぐ
事故から2週間ほどたったころから母親の姿を追う健太郎さんの目の動きに気づきました。手を握るとかすかな反応があります。一筋の希望をつなぐ変化に、百合子さんは「絶対に息子は回復する」と確信を持ちました。
当時、百合子さんは北病院(東京都北区)の看護師。同じ内科病棟にいたのが若き小池医師でした。相談すると「あきらめないで。やれることはすべてやりましょう」。
小池さんは健太郎さんが入院していた大学病院から脳のCT(断層撮影)フィルムなどの資料を取り寄せて、神経内科の専門医と相談。回復の可能性があると判断して、事故から20日後、健太郎さんはリハビリのスタッフのそろった王子生協病院(北区)に転院することになりました。
筋肉が固まらないように体を伸ばすことから始め、3カ月にわたる粘り強いリハビリ。ついに寝たきりから歩行器を使って歩けるまでになりました。
治療の道筋を開いた小池さんは、節々で健太郎さんの様子を見に駆けつけて家族を激励。担当の医師とも相談しながら回復を見守りました。
意識を回復した健太郎さんは車いすで高校にも通えるようになりました。高校1年で事故にあい、奪われかけた高校生活でしたが、事故翌年に復学。4年かけ卒業できました。
百合子さんは、どうしても見てもらいたいと卒業証書を小池さんのところに持ってきて「本当によかった」と喜びあいました。
高卒後も健太郎さんは服飾の専門学校を3年間で卒業。さらに美術の専門学校で2年間勉強。未来に向かって懸命に生きています。
今も健太郎さんに右半身のまひが残り、走ることはできません。記憶障害が残っていますが、手先は器用。障害者作業所でビーズを使ったアクセサリー作りや縫製作業をして働きながら病院に通っています。
幸せもとめ
健太郎さんは1年前に「弱い者が幸せに生きていける平和な世界をつくりたい」と日本共産党に入りました。
「小池さんはいのちの恩人。少しでも力になりたい」。作業所が休みの日はハンドマイクを持ち「強くて優しい小池さん。かけがえのない議席です」と路上から訴えています。 健太郎さんが入党したことを知った小池さんは「涙がでるほどうれしい。榊原さんたちの思いにこたえるためにも、必ず勝ち抜く決意です」と語ります。
(2010年04月22日・しんぶん赤旗)