私ね、これは本当に一つの、いろんな局面でこのフィブリノゲンの拡大については国の責任があると思っておりますが、ただ、このたった一文字の名称変更で第一次再評価の対象から外れた。この当時、有効性を証明するデータってなかったわけですよ、当時も、今もですけれどもね。しかも、有効性が確認されなかったからこそ、八七年の第二次再評価のときに先天性の疾患に限定されている。安全性についても、当時既に血液製剤による非A非B型の肝炎というのは症例報告あります。やはりこのときに名称変更によるすり抜けというのを許さずにきちっと再評価の対象にしていれば有効性も安全性も問い直されていた可能性あるわけで、私は厚労省の責任はこの点でも重大だと思っております。
もう一つのこの問題の背景についてお伺いしたいんですが、フィブリノゲンという薬がどういう経過で世に出てきたのかということです。ミドリ十字の前身というのは一九五一年に創立された日本ブラッドバンク社です。これは売血を集めて輸血用に販売する血液銀行であります。一九六四年にライシャワー事件が起きた。輸血によって肝炎になった。そのとき、黄色い血ということが大問題になりました。輸血後肝炎による黄疸、あるいは売血を繰り返すために血液自体が赤血球が少なくなって黄色く見えるということから付けられた名前であります。で、非常に社会的な批判を浴びた。その結果、ミドリ十字は、当時日本ブラッドバンクですが、生き残りのために方向転換を図るわけです。その経過が、今日持ってまいりましたが、ミドリ十字の三十年史という本や、あるいはこのミドリ十字の創始者である内藤良一氏のこれは個人の出している本です。「老SLの騒音」という文集です。ここに出てまいります。
今日お配りしておりますが、四ページの二百八十一ページの下の方にこう書いてあるんです。昭和三十九年の保存血液の採血供給は日赤の献血でやるという閣議決定を導いて、我々民営血液銀行は後退のやむなきに至りました。法律上の理論はともあれ、法律よりも幅を利かす行政指導が強く、許認可権が握られているお役所からの要請に対して、当時生まれたばかりの血漿分画製剤の維持を交換条件的な約束事として従わざるを得ませんでした。こう言っている。
それから次のページ見ていただいて、三百三十四ページの上の方ですが、こう言っているんです。我々に対して好意のあった厚生省の課長や献血事業団の山口専務理事から、声静かに、保存血から手を引きなさい、そうすれば血漿分画製剤の事業は生き残れるという忠告がありましたと、こう言っているんですね。
正にここにあるように、一九六四年の八月二十一日に保存血の献血化が閣議決定されます。しかし、そのときに血液製剤は献血化の対象から外された。
そして、内藤氏は、ここに書いているように、国と血液銀行が保存血を献血化することと、一方で血液製剤の材料として売血を温存することについて、交換条件と言っておりますが、取引したんだ、厚生省の方からそういう働き掛けがあったんだということを個人文集の中で書いてある。
局長、お伺いしたいんですが、当時、厚生省から当時の日本ブラッドバンク社に対してそうした働き掛けを行ったという事実はあるんでしょうか。