Dr.小池の世直し奮戦記
根っこは枯れず
「いつでも元気 2011.10 No.240」より

Dr. 小池の世直し奮戦記/根っこは枯れず

 東日本大震災では、のべ一万五〇〇〇人の民医連職員が被災地にかけつけ、救援活動にあたって勇気と希望を広げました。こうした被災地救援活動は、戦前の無産者診療所の時代から続く民医連の"伝統"でもあることをご存知でしょうか。

被災地に向かった24歳の看護師

 一九三三年三月三日、青森・岩手・宮城三県を襲った「昭和の三陸大津波」は、死者・行方不明者が三〇〇〇人を超える大災害になりました。何万人もの人々が飢えと寒さに震えているという知らせを受け、東京では労働者の中に「三陸震災救援委員会」などの救援組織がつくられます。募金活動がおこなわれ、救援活動も呼びかけられました。
 これに「大崎無産者診療所」(東京・品川区)の医師・看護師らがこたえました。「貧困に苦しむ労働者・農民に医療を」と三陸大津波の三年前に日本で初めてつくられた無産者診療所です。そのなかには二四歳の看護師、砂間秋子さんの姿もありました。

救援活動を特高警察が弾圧

 被害のもっとも大きかった岩手県の田老村に向かった秋子さんたちは、盛岡から雪の中を約一〇〇キロ歩いて宮古に入り、さらに船で一時間半かけて現地にたどり着いたそうです。
こんなに遠回りしたのは、侵略戦争に反対し、"国体(天皇制)を破壊する勢力"として無産者診療所に目をつけていた官憲の監視網をかいくぐるためです。戦後、秋子さんは語っています。
 「私たちはまず役場に行って持参した義捐金や衣料などを渡し、すぐ病人の診療を始めました。ところが三時間ほどそれをやっただけですぐ逮捕されてしまったのです。みんな行列を作って診療の順番を待っているのにです」(山下文男『哀史三陸大津波』より)
 現地には戦争に召集されていない高齢者や婦人、子どもたちが多く残されており、雪の降る中、バラックのような避難所しかなく、肺炎などの重病者がたくさんいたそうです。救援隊は大いに歓迎されたでしょう。ところが戦前の治安維持法の下では救援活動さえも特高警察に弾圧されたのです。このとき、夫の一良さん(戦後、衆議院議員などを歴任)も、わずか半年間の結婚生活の後、逮捕・投獄されていました。

受け継がれてきた先輩たちの志

 その後、無産者診療所の運動は全国に広がりますが、国家権力による弾圧も強まり、アジア太平洋戦争が始まる一九四一年、新潟県にあった五泉診療所を最後に、閉鎖させられます。しかし戦争中も「労働者・農民のための医療を」という思いは受け継がれました。そして戦後、民医連運動としてよみがえり、今日につながっています。
 「現在の全国民医連運動は、一たん地下水となった戦前の運動が、戦後再び地上にあふれ出て大きな流れとなったものであり、まだ大河にはなっていないと思うが、地域の人々を含めて大きな川の流れとなったときには、権力機関が戦前のようにどんなに押しつぶそうとしてもつぶせないものとなろう」(金高満すゑ『根っこは枯れず』一九六七年刊行)
 いまでは、民医連の病院・診療所、介護・福祉施設などは、地域になくてはならない存在となっています。災害から命と健康を守ろうとする先輩たちの思いは、脈々と受け継がれ、大きな流れとなっているのです。

アーカイブ